kionachiの日記

中野でコミックやラノベの装丁やテキスト仕事や社長などをしている木緒なちの日記です。

ヘイトの向かう先

 先日、仕事関係で溜めたヘイトをツイッターで流してしまい、そのせいでフォロワーの方の心を傷つけてしまうということがあった。後から読み返してもなんとも感情的な、何の解決にもならないことを言ってしまったと思う。

 自分は元来、かなり感情の起伏が大きく、カッと頭に血が上る傾向があった。それをいわゆる社会的倫理観で抑えていたのだけど、時折、先のように表へ出してしまうことがある。年齢的、経験的に社会生活を大きく変えるのは難しい状況ではあるけれど、今一度、こういった『ヘイトを溜めた際の対処』について考えてみることで、先のような行為を減らせるように努力しようと思う。

 

 ごく普通に働いていると、ヘイトというのはすぐに溜まる。他者との差異、社会との差異が一定量を超え、それが明確に自分の不利益につながった時、あるいは自分が努力して出そうとした結果が、誰か、もしくは団体の行為によって無駄なものへと成り果てた時、ゲージはすぐに満杯になる。

 ヘイトには必ず原因がある。たとえば自分の制作した商品が売れなかった、というケースだと、タイミングの善し悪し、ニーズに合っていたかどうか、単純な品質の問題、営業・販売の問題、発売後のユーザーの反応、など、いくつかの要素が思い浮かぶ。

 ここでヘイトの向かう先を、内向けと外向けで分けて考えてみる。

 内向けの場合、その原因は自分になる。タイミングを計り損なった、ニーズを把握しきれなかった、営業や販売も兼業していた場合は、その対応や方法にも原因が考えられる。何より、品質向上についてクオリティラインに達しなかった、という点が最初に挙げられるだろう。その際、ヘイトの解消は次の機会に自助努力することでいくぶんかは達成できる。あまり内に向けすぎると自己嫌悪に繋がり、努力ではなく自分を責めることにつながりかねないのでバランスが必要だが、改善に向かう可能性があるだけ、ずっと健康的だ。

 しかしこれが外に向かうと、一気に物事が壊れ始める。タイミングが悪いのもニーズに合わないのも社会のせいだ、売れないのは営業が悪いからだ、品質が向上できなかったのは仕様を途中で変えた○×のせいだ、何より、良い物であるはずなのに、アマゾンレビューでクソミソに叩いたあいつのせいだ、あいつは何だ、どこどこのメーカーの奴に違いない、よおし、俺もあいつを

 書いていて自分でもまた過去のヘイトを思い出しそうになったけれど、おおむねこんな感じだと思う。原因を外に求めると、とかく汚れた物が噴出し、一瞬で周囲は汚れていく。何より便利なのは、外に黒い物を向けることで、自身は汚れなくて済むということだ。内向きにすると、内部で黒い物を処理するのに時間も労力もかかるため、結果、自分が苦労することになるのだけれど、外にまき散らせば苦労もなく、人が同意すれば更に楽になる。仲間が増えてどこかに攻撃することまでできれば、叩きのめす快感まで得ることができる。もちろん、原因が明らかに外に存在する場合もあるのだけれど、真っ当なクレーム、意見の範疇を超えた瞬間から、それは別のおぞましい物へと変化していく。

 そして外に向けたヘイトは、様々なものにリンクして増殖する。よほど具体的に対象を決めて発したヘイトであっても、受け取る人によって如何様にでも解釈され、広がっていく。

 たとえば、対象がアメリカだとしよう。アメリカで購入したなにかの商品が劣悪だった。それをツイートで糾弾する。『アメリカのショッピングサイトで買った○○○がひどかった。やっぱりか。最悪だ』アメリカに限らず、海外のサービスでは日本ほどのケアを受けられない場合が(あくまでも世間的イメージとして。実際は逆のことももちろんある)広がっているので、いい言葉ではないが、強く周囲から非難される類のコメントではないと思う。

 しかし、これを当のアメリカの人、それも自国におけるサービスのイメージがあまり良くないことを憂い、改善に向けて努力している人が見れば、その瞬間、ヘイトのゲージは急速に上がるだろう。これだけ頑張っていても、やっぱり他の人はこういうイメージを持つし、実際にそんな物を売っている人もいる、どうしようもない、と。こうしてヘイトがヘイトを生んでいく、わかりやすい悪循環が発生する。いいことなどどこにもないのである。

 ではどうすればいいのか。あまりに単純すぎてわざわざブログで言うようなことでもない気もしてきたけど、要は最初に書いた通り、なるべく物事を内に向けて処理するようにすればいい。原因を分析し、それを解決し、処理する。自分の出したゴミを自分で片付けるということだ。

 とはいえ、これも先に書いた通り、ヘイトを内に向けすぎると心が真っ黒になり、いわゆる魔女化が進行してしまう。そんな時は何かを以てして浄化するしかない。以前にも書いた通りアニメを観るのがいいように思う。ありがたいことに、最近は各クールごとに犯罪発生率軽減枠(勝手にそう呼んでいる)の癒しアニメがだいたい一本は含まれていて、ヘイトを溶かすのに丁度いい処方箋となっている。『のんのんびより』を観よう。長らく付き合いのある先輩の渡辺僚一さんが一年ほど北海道へ移住することになり、昨日その送別会を行っていたのだけど、かつてジャイアント馬場から若手レスラーに間違えられた経験を持つ風貌の渡辺さんによる「にゃんぱすー」でさえ、場を和ませるのに十分だった(渡辺さんも『のんのん〜』を観ていた)。稀勢の里の黒星で溜まったヘイトがわずか一言で緩和したのだ。素晴らしい。

 最後はオチっぽくなったけれど、ヘイトは内々で処理できる分は処理しましょう、外に向けるとそれは必ず拡散して皆を不幸にします、ということで。自分も今後、本当に気をつけようと思っている。

父は魚と会話していたらしい

 ここ数年で法事と訃報が相次いだこともあって、盆と正月以外にも帰省することが多くなっている。あまり人も呼ばず、お寺さん(これも関西特有の言い方なのか)を呼んで、みんなでご飯を食べて夜には解散というシンプルなスタイルなので、格式張った田舎の冠婚葬祭が苦手な自分にはとてもありがたい。

 で、親族が集まると決まって昔話になるのだが、自分もまったく知らなかった故人の逸話が次々と飛び出してきてとても面白かった。旧電電公社出身の祖父母がモールス信号のやりとりで食事の約束をしていたとか、退職後アマ無線を趣味にしていた祖父が海外に向けて打っていたモールスの内容(激速)に、理解できる祖母だけが「またお父さんそんなん言うて」と笑ってて他の家族がポカーンとか、ちょっと中二テイストもあって楽しかった。

 そして今回の帰省で明らかになったのは、自分の父親はもしかしたらC.W.ニコル並みに自然と対話する人間だったのではないか、という話だった。

 父は九州の田舎、それもかなり端の方の出身で、両親を早く亡くしていたこともあり貧困生活が長かった。そのため、高校生になると近くの海に素潜りをして、モリで魚介を突いて食べていたらしいのだけど、そのサブエピソードがもうなんかすごかった。

 なんでも、その頃行っていた海には『師匠』がいて、その師匠の所に何年も通ってやっと教えて貰った極意があり、それは海の中で水を飲むか吐き出すかして作る『音波』のようなもので魚を呼び込み、大物を仕留めるという内容だった。あまりに荒唐無稽すぎて、その話だけでは信じられなかったのだけど、子供の頃からキャンプに付いていく度、「ちょっと潜ってくるわ」でしっかりと獲物を捕ってきていた父の姿を見ているだけに、ひょっとしたら、の思いの方が勝ってしまう。

 ちなみに、その技は一子相伝で、父曰く師匠は自分以外の誰にも伝えてはいなかったそうだ。父の親友だった人も、ついに最後まで教えて貰えなかったらしい。父は亡くなって17年になるのだけど、僕を含め子供には誰も伝えることはなかったので、この技はもうどこにも残っていない。本当にそんな技があったのだとしたら、なんとも惜しい話だ。

 ただ、仮に伝授されていたとしても、今の自分には使う機会が無さそうなので、きっと持て余していただろうなとも思う。そもそも、自分はあまり海に興味を示さなかったので、父としても無理に教えてもなあ、という思いがあったのかもしれない。(この辺のドライさ加減は似てるなあと最近になってよく思う)

 あと、ここまで書いておいてなんだけど、C.W.ニコルは山の人なので、海で言うのならば別のたとえを出すべきだったと反省している。海で魚と会話する有名人って誰だろう、ラッセンとかさかなクンさんか……。

いきなりホッテントリ化すると身体に悪い

 何気なくアップした日記が600以上ツイートされ、なんかクリエイター必読みたいなタグをつけられたりして一気に恐縮したこの3日間、皆様におかれましては如何お過ごしでしょうか。

 読み返すとお前何様だよというぐらいに構えまくっていて噴飯物なのだけれど、具体もロクに出さず『〜であるべき』的な言い切りになっていてそれもまた悲しい。とは言え、あの一文をお読み頂いて皆様の中に少しでもヒントになったり契機になったりすることがあったなら、あまり自分がグチグチ言うとその感情までもバカにすることになりかねないので、頭を抱えてゴロゴロ転がるのはこの辺でやめにしておく。

 しかし、普段そうそう注目されることの少ない人間が、突如こうやって人目に晒される事態になると、感情のコントロールからして上手くできないものなのだと改めて思い知った。日記を書くのは面白く、今のところは三日坊主で終わりそうにないけれど、こういう麻薬的な刺激が続くとちょっと良くないなとも改めて思った。というか、ついこないだこういう話を日記で書いたばかりなのに(http://kionachi.hatenablog.com/entry/2013/12/20/125309)、重い日記を年始から書いてどうするんだと。このままだとプロントのパスタが意外に旨いの日記を永遠に封印しなくちゃいけなくなるので、重いのはまたしばらく寝かせておくことにする。ちなみにプロントで美味しかったパスタはジャコと高菜のパスタでした。おいしいですよ。

神が降りてきた、の危うさ

 僕がシナリオライターになったのは2003年のことで、もう散々あちこちで話したことだけど、スタッフが突然いなくなって急遽その穴埋めで入ったのがきっかけだった。

 とにかく書ければいいから、の危険極まりない一言でスタートしたライター稼業だったけれど、幸運にも大学がストーリー作りについての勉強もできる学科(映像学科)で、モノは違えどシナリオを書いた経験もあり、何より自分自身が物語に興味があったことも手伝って、なんとか形にして世に送り出した。

 で、それがジワジワと評判になって、シナリオの依頼が来るようになるのだけれど、当時はまだ追い込まれれば書ける、という妙な自信があって、現にそれが上手く行っていたのでそうそう悩む事もなかった。作品数は増え、ファンだという人も増えていった。

 しかし、本来出せる実力は、悲しい程に育ってなかった。たまたま空気の合った『泣きゲー』ブームとの親和性は、その後やって来る萌えゲーの流れに乗り遅れる原因となり、次第に評判は下がっていく。こうなるとすべての歯車が狂い出して、何をやっても上手く行かないと思い始め、内へ内へと入っていってしまう。悪循環である。しかも、これを単に時代が違うからと思い始めると始末が悪い。時代が悪い、社会が悪い、である。自分もまた、そういう穴へ落ちて行きかけた。

 本当は、神なんか降りてきてなかったのだ。あれは、自分がこれまでに触れてきた物語の残滓から、使える物を知らず知らずのうちに貯えていて、それがポロッと落ちてきていただけのことだったのだ。サボることなく、請けた仕事にきちんと向き合って、真剣に考える時間を少しでも増やしておけば、もっと早く、神なんかじゃない、自分の貯金が早々に降ろせていて、しかも新たにお金を入れることだってできたはずだ。

 追い込まれると『神』が降りてきて、なんか良い物が書けるような気がする。それが結果に結びつくと、毎回のように追い込まれる状況を作るようになり、追い込まれた俺は強いからと遊びほうけるようになる。しかしその正体は、自分の身体を食い続け、気がつけば足が一本も無くなっている蛸だったのだ。

 正統な形で経験を積んでいけば、いつしかネタが本当に枯渇した時に、経験がアイデアの少なさを補うようになって、計算で物を作れるようになるはずだ。それがつまらないと言う向きもあるだろうけど、アウトプットもできないまま沈んでいくよりはずっとマシだ。何より、食べていくためにはその切り替えが必要だろう。

アニメは楽しいけど人生にしちゃわない方が楽しくなれる

 先のUSTでも話したことだけど、この3年ぐらいの間で、以前よりもアニメをよく観るようになった。以前は仕事関係でちょっと鬱々としたことがあって、それを思い出すからと関連するアニメを避けて生活していたのだけれど、一度観始めるととても楽しくなって止められなくなった。

 その中でも、いわゆる癒し系に分類されるアニメをよく観ている。今年だと、ゆゆ式ときんいろモザイクとのんのんびよりはとても好きだった。のんのん~は、今ちょうど半分ぐらい見終わったところだけど、にゃんぱす~と発音しているだけで精神の安定が図れる。れんげの台詞を聞いているだけで心が穏やかになる。背景美術だけで田舎へ旅立った気分になれる。癒し系とは違うけれど、ガールズ&パンツァーもとてもすばらしかった。スポ根の世界遺産みたいな筋の通し方だった。文化勲章をあげるべきだ。

 アニメはとても面白いけれど、当然ながらリアルではない。ただ、これを所詮作り物だと俯瞰してみるのももったいない。とても多くのお金と才能と時間をかけて作られているのだから、楽しまなければ損だ。しかし、あまりにハマりすぎて、派閥戦争が起こったり、売り上げの差でヘイトを溜めたりしてはもっと損だ。この辺のさじ加減というか、自分の身の置き所みたいなものを見つけると、世にあるすべてのコンテンツがとてもすばらしい娯楽として立ち上がってくる(ゴローちゃん風)。

 ここまでアニメに浸かった僕ではあるけれども、生活のすべてをアニメ・ゲームに費やし、他には見向きもしないというわけではない。アニメは一日一時間程度を区切りにして、それ以上は観ないようにしている。その方が、また明日もあるからと楽しみが持続するし、他の諸事もはかどる。嗜好品を日常的に使用すると舌が麻痺するのは酒タバコ美食を見てもわかりきっていることで、決まり事の範囲内でやるから楽しいのだ。(まあ、たまの休みの日にぶっ通しでアニメをまとめて観るのもそれはそれで楽しいけれど)

 

 と、ここまで書いておいて言うのもなんだけれど、これって自分が子供の頃に大人たちから言われていたことそのままじゃないかと思えてきた。自分がそういう年になり、それ相応に分別というか加減を知るようになったのだなと思うと、感慨深いものがある。『ゲームは一日一時間』は至言だったんだなあ。

グッドデザデザUSTの話

 4年ほど前から、不定期でBALCOLONY.の染谷さんとUSTで雑談放送をしている。最近はお互いに時間が取れなくなり、年末に一度だけ開催が恒例となった。そんな気分屋な放送にもかかわらず、楽しみにしてくださる方もチラホラと見受けられ、ありがたい限りだ。

 デザイナー、特にアニメやゲーム分野でその職業についている人たちが、昔に比べてきちんと意思を持って発信するようになった。発端はやはり染谷さんの『オタクとデザイン』なのだけれど、いまや制作物のクレジットに『デザイナー』の枠が無い方が珍しい、という所までやってきた。商業だけでなく、同人にもその波は確実に来ていて、最終的なパッケージングをデザイナーと共に考えよう、という同人サークルの数は次第に多数派へと変わろうとしている。

 ようやく、デザイナーがこの世界で認知されるようになったのだ。本当に嬉しいことだと思う。

 しかし、デザイナーが本当の意味で他の仕事と同格に置かれているかと言えば、まだまだそんなことは無いのが実情である。文字ツールで文字を置いて、大きくして小さくして色をつけて、素材集で選んできたパーツを四隅に付ければデザインなんでしょう? とやられることは未だに一年で4件ぐらいある。ひとつひとつ、そうじゃないんですよと丁寧に説明するようにはしているのだけれど、同じ作り手であるはずの人たちからそういう言葉を聞くにあたっては、ヘイトも溜まるし絶望することもある。

 啓蒙、というと途端仰々しくなるけれど、話せばわかる人だってたくさんいる。だから話すようにしている。ああなるほど、それぐらい知恵と労力を使うことならばお金も時間も必要になりますね、と言って貰えることがほとんどだ。でも、面と向かって話せる機会は残念なことにとても少ない。ゆえに、機会があれば必ず何かを話すようにはしている。

 染谷さんとのUSTも、その機会の内のひとつだ。放送では世にある制作物たちをよく紹介するけれど、それがいかにして生まれどういった工夫と労苦の上に成り立ったのか、そういう話をあまり説教臭くなく、自然とするようにしている。すべての制作物は、必然性と労力と少しの偶然によって生み出されたのだということがわかれば、自分以外のすべての事柄について踏み込んで考えることができる。より多くの人がそうなればいいなと思っている。

 

 でもまあ、今年もまた酒飲みトークが8割方占めていると思いますので、どうぞお気楽な感じでご覧頂ければと思います。20時開始予定でしたがこの分だと21時になりそうです。みんなでそめちゃんの残務が早く終わるように応援しよう!

 

ソメチャンキオチャンのグッドデザデザ忘年会UST

http://ustre.am/G8x2

デザインノベル、あと今回のC85冬コミについて

 今年の夏、あまりに自堕落な自分の現況と周囲の活気に満ちた活動の対比に愕然とし、思い切ってコミケのサークル参加に申し込んだ。これまではずっと、半端マニアソフトという同人ゲームサークルでの参加だった。個人での参加はもちろん初めてのことで、応募完了した時の高揚感たるや、まだできてもいない本についてあれこれ想像を巡らせるという、昨日今日コミケを知った中高生のような浮かれっぷりだった。

 大方の予想通り、10月の後半にはコミケという単語を聞くだけで冷や汗をかくようになり、そろそろ迫る当落通知の発送に向け、嫌なことばかり考えるようになっていた。この忙しさの中、常に設置された長期〆切を押しのけるようにして、僕は同人誌など作っていていいのだろうか。これまで、仕事を常に優先してきたからこそ、僕という存在が許されていたんじゃないだろうか。艦これ楽しいウヒーとか言ってるのと段階が違うのだ。あまり調子に乗っていては、本当に呆れかねられない。

 予想は悪い方に当たるもの。初めての個人参加コミケは当選となった。しかも、れー01bである。壁である。端っこである。どう考えても目立つ事この上ないのである。ひとまずツイートを終えた後、ひたすら唸ってどうしたらいいのか考え始めた。

 当選のお知らせがあった11月上旬の段階では、当然ながら本の企画も内容も何もかも完全に白紙だった。印刷所の手配もゲストも何も決めておらず、ただあるのは、ドロップボックスの『個人』フォルダにおいてある『冬コミネタ.txt』というテキストファイルだけである。開いてみると、お前これ何ヶ月かけて作るつもりだというような壮大なネタばかりが書いてある。三ヵ月前の自分に怒りを感じつつファイルを閉じた。

 ともあれ、当選したからには本を作らなければならない。空っぽのスペースに『落ちました』と書いてペーパーでは、来て下さった方にも、そして参加者の皆様にも申し訳なさ過ぎる。企画を考えよう。企画を考えることにした。

 僕の職業はデザイナーとライターだ。つまり、自分で書いて自分でレイアウトができる。この職能を利用して、よくゲスト原稿の〆を2日程延ばしてもらっていたりした。epsファイルで送るからギリまで待って、というやつである。迷惑なこと甚だしい。

 しかし、これが自分の同人ならば、依頼原稿のタイミングさえ間違わなければ、リスクも何もかもすべて自分になる。ギリギリまで待つことができる。それに、レイアウトやデザインをネタにしてテキストを書けば、二つの職能を融合させられる。これしかないわ、と思った。タイトルの所に『デザインノベル』と書いた。タイトルの発想力の無さに再び愕然としたが、いいんだ、こういうのはわかりやすい方がいい。ともあれ方針は決まった。

 この時点ですでに12月の1週目が終わろうとしていた。あと2週間ちょっと、ギリギリまで待ってくれる印刷所様を確保したとは言え、キツいことに変わりはない。この時点で、新規でフィクションを書くのは諦めた。今回は準備号しかない。ならば対談で文字起こしをして、それをレイアウトしていくのはどうだろう。幸いにも、知人にテープ起こしが好きだといういささか変態的な方がいらっしゃった。お願いした。快諾頂けた。

 本の詳細なコンセプトを決める。装丁を凝っている本はたくさんあれど、本文組みにベタベタと手を入れる本はそう見かけない。当然、手間がかかるからなのだけど、ここに踏み込めれば、あまり見ることのない本を作れるかもしれない。何より、自分がそういう工程の入った本を見てみたい。じゃあそれにしよう。本文の内容に沿って、文字組みや書体や色や装飾が変わっていく本。大変だろうけどやり甲斐はある。準備号はそのプレバージョンにして、凝った組みをしている先駆者達に敬意を払いながら、自分はどうするかを考えていく内容にしよう。件のテープ起こしの好きな知人に話し、相手役になって貰った。対談した。テキストが即座に起こされた。ギリギリのところでイラストを加藤たいらさんにお願いした。いつも迷惑をかけてばかりなのに、今回も快諾してくれてありがたい限りだ。素晴らしいイラストが上がってきた。白い表紙にレイアウトし、太めの欧文書体で『DESIGNNOVEL』と打った。そして本文レイアウト。組みを弄り文字を弄り色を弄り、やっとの思いで完成の日を迎えたら、〆切のギリギリ1時間前だった。全身の力が抜けた。校了した。見積もりの値段は見なかったことにした。

  こうして、初めての個人でのコミケ参加は、かなり綱渡りでありながらも、どうにか本番を迎えることができた。ご迷惑をおかけした関係各所、そして協力頂いた皆様には、心からのお詫びと感謝を申し上げます。やっぱり、同人誌作るのって大変だ。仕事と両立して毎回のように参加している作家さんに、改めて敬意を持った。

 

 コミックマーケットC85冬、3日目、西館れー01b、サークル名はコロリメイジ。上述の通りバタバタの中で生まれた本ですが、面白くなったんじゃないかと思います。よろしければ、お目通しくださいませ。48ページカラー、500円です。

 

サークル:コロリメイジ

http://www.kionachi.com/colorimage/